スタジオジブリが誇る不朽の名作『もののけ姫』。私がこの映画を初めて観た時の衝撃は、今でも忘れられません。自然と人間の壮絶な戦いを描きつつも、どちらか一方を完全な善や悪として描かない、その複雑な物語構造に深く引き込まれました。しかし、この作品の魅力は、スクリーンに映し出される物語だけにとどまりません。
実は『もののけ姫』には、宮崎駿監督が認めた公式の裏設定から、ファンの間で囁かれる都市伝説まで、数多くの「語られざる物語」が存在します。これらの裏話を知ることで、登場人物たちの行動原理や、物語の背景にある深いテーマがより鮮明に浮かび上がってきます。
この記事では、私が厳選した『もののけ姫』の裏話と都市伝説を紐解き、作品が持つ真の魅力に迫ります。
タタラ場に隠された社会の縮図

物語の重要な舞台であるタタラ場は、単なる製鉄所ではありません。そこは、当時の社会から虐げられた人々が集い、生きるために戦う共同体でした。エボシ御前が築き上げたこの場所の真実を知ると、物語の見方が大きく変わります。
包帯の人々の正体|ハンセン病患者への眼差し
タタラ場には、全身に包帯を巻いた人々が登場します。彼らは最新兵器である石火矢(いしびや)の製造を担う重要な存在ですが、その正体について劇中では詳しく語られません。実は、宮崎駿監督は彼らが「ハンセン病」を患った人々であることを公式に認めています。
監督は、自宅近くにあった国立ハンセン病療養所「多磨全生園」を訪れた経験から、この設定を着想しました。かつて「業病(ごうびょう)」と呼ばれ、社会から隔離され差別されてきた人々が、それでも懸命に生きた歴史に衝撃を受けた監督は、彼らの苦しみと尊厳を作品に描くことを決意したのです。劇中で病者の長がアシタカに「あの方は、わしらを人として扱ってくださったたったひとりの人だ」と語る場面は、エボシが彼らに与えたものが、単なる住処や仕事ではなく、「人間としての誇り」であったことを示しています。主人公アシタカが負った呪いの痣もまた、理不尽な苦しみを背負う者の象徴であり、観客が彼らの境遇に共感するための重要な装置となっています。
指導者エボシ御前の壮絶な過去|革命家としての顔
タタラ場を率いる冷徹で現実的な指導者、エボシ御前。彼女がなぜあれほどまでに強い意志を持ち、虐げられた人々を率いるのか。その答えは、彼女の壮絶な過去に隠されています。公式の裏設定によると、エボシはかつて人身売買によって海外に売られ、倭寇の頭目の妻となりました。しかし彼女はその才覚で頭目を殺害して組織を乗っ取り、莫大な富と最新技術を手に日本へ帰ってきたのです。
この背景を知ると、彼女の行動すべてに納得がいきます。彼女は家父長制の暴力と搾取の最大の被害者であり、サバイバーです。だからこそ、遊郭から女性たちを買い集め、経済的自立と尊厳を与えました。当時の製鉄所「たたら」が女人禁制だった常識を覆し、女性たちを労働の中心に据えた行為は、まさに革命的な思想の実践です。彼女が森を破壊するのは単なる強欲からではなく、社会から見捨てられた者たちで築いたユートピアを守るためという、切実な理由があったのです。私が思うに、彼女は単なる悪役ではなく、近代的な視点を持つ革命家として描かれています。
タタラ場が背負う環境への代償
エボシ率いるタタラ場の繁栄は、美しい森を破壊し、その資源を搾取することで成り立っています。この設定は、島根県に実在した「たたら製鉄」の歴史がモデルです。史実においても、たたら製鉄は一回の操業で山一つを丸裸にするほど大量の木炭を必要とし、大規模な環境破壊を伴う産業でした。
猪神ナゴの守や乙事主たちが人間に対して抱く深い憎しみは、自分たちの住処を奪われることへの直接的な怒りが原因です。ここに、この作品が投げかける非常に難しい問題があります。それは、社会的に弱い立場の人々の解放と生活の向上が、結果として自然環境の破壊を引き起こすという痛烈なジレンマです。本作は、自然を善、産業を悪とする単純な二元論では決してありません。タタラ場がもたらす社会的恩恵と、それが引き起こす環境的悲劇。その両方の現実を突きつけることで、人間の営みが持つ根源的な矛盾を私たちに問いかけているのです。
神々と人間の世界の断絶

『もののけ姫』の世界では、人間がその領域を広げるにつれて、かつて世界を支配していた神々の力は衰退していきます。ここでは、人間と神々の決定的な断絶を象徴する裏設定やエピソードを紹介します。
主人公アシタカの出自|追われた民「蝦夷」の末裔
物語の主人公アシタカは、冒頭で「東の果てに潜み暮らす」一族の若者として紹介されます。彼の故郷は、大和朝廷との戦に敗れ、歴史の表舞台から姿を消した「蝦夷(えみし)」の末裔の村であると設定されています。蝦夷は、日本の東北地方に実在した先住民族で、縄文文化の流れを汲む狩猟採集の民でした。
この出自こそが、アシタカというキャラクターの核をなしています。彼は、自然と共生していた失われた世界の代表者であり、森の神々の怒りも、人間たちの必死さも、どちらにも偏らずに見つめる「曇りなき眼(まなこ)」を持っています。歴史の敗者であるがゆえに、彼は勝利や支配ではなく、対立を超えた「共に生きる道」を模索します。アシタカが単なるヒーローではなく、物語全体の調停者たりえるのは、この特別な出自があるからなのです。
シシ神の死が意味するもの|神々の時代の終わり
鹿の体に人間の顔、そして夜には巨大な「デイダラボッチ」へと姿を変えるシシ神。生命を与え、そして奪うという、善悪の概念を超越した自然そのものの化身です。その首を獲れば不老不死が得られるという人間の欲望が、物語の悲劇を引き起こします。
シシ神の首が断たれるシーンは、単に強力な神が殺されるという展開ではありません。これは、人間が自然の循環や摂理を破壊し、神聖なものとの繋がりを自ら断ち切った瞬間を象徴しています。首を失ったシシ神の体が、生命を無差別に吸い尽くす破壊の力と化したのは、生命と死のバランスが崩壊したことを意味します。アシタカとサンが首を返したことで森は再生しますが、そこに神々の荘厳な姿はもうありません。これは、神話の時代が終わり、人間が自らの力だけで生きていかなくてはならない「人間の時代」の幕開けを描いた、壮大なメタファーなのです。
コダマとトトロの意外な関係性
森の豊かさの象徴として描かれる、首をカタカタと鳴らす精霊コダマ。シシ神が死んだ際に一度はすべて消えてしまいますが、ラストシーンでたった一体だけが再び姿を現します。この最後のコダマについて、ファンの間で非常に夢のある都市伝説が語られています。それは「このコダマが、のちにトトロに進化した」という説です。
この説の元になったのは、宮崎監督がインタビューで冗談めかして語った一言でした。公式な設定ではありませんが、多くのファンに支持されています。『もののけ姫』の過酷で厳しい世界の後に、『となりのトトロ』の優しく穏やかな世界が待っていると考えると、どこか救われた気持ちになります。神々の時代は終わってしまったけれど、森の精霊は形を変えて生き続け、子どもたちのことを見守ってくれている。この都市伝説は、そんな希望を観る者に与えてくれる、素敵な物語の続きと言えるでしょう。
ファンの間で語られる魅力的な都市伝説

公式設定以外にも、『もののけの姫』にはファンの考察から生まれた、非常に興味深い都市伝説がいくつも存在します。ここでは、特に有名な二つの説を取り上げ、その魅力を探ります。
サンとエボシは実の親子だった?|母と娘の悲劇
ファンの間で根強く囁かれているのが、「サンはエボシが森に捨てた実の娘ではないか」という都市伝説です。劇中に直接的な証拠はありませんが、そう考えると腑に落ちる描写がいくつも存在します。例えば、育ての親である山犬のモロがアシタカに「おまえにあの娘の不幸が癒せるのか」と問うシーンや、エボシが「あのもののけ姫を人間にもどしてやる」と語るシーン。これらは、娘の将来を巡る二人の「母」の言葉として解釈できます。
もしこの説が本当なら、人間と自然の対立という大きなテーマは、文明のために子を捨てた母(エボシ)と、野生の中で子を拾った母(モロ)による、一人の娘をめぐる壮絶な家族の物語へと変わります。クライマックスでモロの首がエボシの腕を食いちぎるシーンも、娘を奪われた母の最後の復讐と見ることができ、物語はより一層、悲劇的な深みを増します。この説は、事実かどうか以上に、物語の解釈を豊かにしてくれる非常に魅力的な視点です。
謎の男ジコ坊の正体|暗躍する巨大組織の影
ひょうひょうとした態度でアシタカに近づき、物語を大きく動かす謎の男、ジコ坊。彼は「師匠連(ししょうれん)」と呼ばれる組織に属し、帝の密命を受けてシシ神の首を狙っています。この師匠連の正体こそ、当時の日本で絶大な権力を持っていた「比叡山延暦寺」のような巨大宗教勢力ではないかと推測されています。
その根拠の一つが、ジコ坊が率いる「石火矢衆」の存在です。彼らのモデルは、祇園社(延暦寺の末寺)に仕えた「犬神人(いぬじにん)」という下級神官たちだと考えられています。エボシが自らの共同体を守るという具体的な目的のために戦うのに対し、ジコ坊と師匠連は、顔の見えない権力者の抽象的な欲望のために動いています。全てが終わった後、ジコ坊が「馬鹿には勝てん」と吐き捨てる姿は、彼自身がこの任務を金のためのくだらない仕事と見なしていたことを示唆しています。この物語における真の悪は、具体的な動機を持つエボシではなく、自らの行動の結果に責任を持たない、官僚的でシステム化された組織そのものなのかもしれません。
まとめ

『もののけ姫』の裏話と都市伝説を巡る旅はいかがだったでしょうか。私がこの作品に惹かれ続ける理由は、今回紹介したような、知れば知るほど深まる物語の奥行きにあります。
タタラ場に集う人々の背景、エボシの革命家としての一面、そしてアシタカの出自。これらを知ることで、キャラクターたちの行動一つひとつに、より深い意味が込められていることに気づかされます。神々の時代の終わりや、ファンの間で語り継がれる都市伝説は、私たちが生きる現代社会や人間そのものについて、改めて考えさせてくれます。
この映画のキャッチコピーは「生きろ。」です。それは、簡単には解決できない矛盾や対立に満ちた世界で、それでも他者と関わり、共に生きていく道を探し続けなさいという、宮崎監督からの力強いメッセージに他なりません。この記事が、あなたが再び『もののけ姫』を鑑賞する際に、新たな発見と感動を得るための一助となれば幸いです。