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草壁シトヒ
ブロガー
普通の会社員でブログ歴は10年以上。

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『火垂るの墓』の元になった実話はもっと残酷だった…作者が隠したかった兄妹の結末

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多くの日本人が涙したスタジオジブリの名作『火垂るの墓』。戦争の悲惨さの中で必死に生きようとする兄妹の姿は、私たちの胸を強く打ちます。しかし、この感動的な物語の元になった原作者・野坂昭如の実体験は、私たちが知る物語とは似ても似つかない、壮絶で残酷なものだったことをご存知でしょうか。

私がこの事実を知った時、作品に対する見方が大きく変わりました。この記事では、美しい物語の裏に隠された、作者が本当に伝えたかったであろう、兄妹のもう一つの結末に迫ります。

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私たちが知る物語と残酷な実話の違い

アニメで描かれた清太と節子の物語は、多くの部分が作者・野坂昭如による創作です。彼の実際の体験は、私たちが感情移入したあの献身的な兄の姿とはかけ離れた、壮絶なものでした。

孤児ではなかった兄妹|両親は生きていた

物語では、兄妹は神戸大空襲で母を亡くし、海軍大尉の父も戦死したことで完全な孤児となります。これが悲劇の大きな要因でした。

しかし、事実は異なります。空襲で亡くなったのは養母であり、実の父親は健在でした。野坂氏本人は養子であり、戦後、窃盗で捕まった際には実父が身元引受人になっています。物語は、兄妹を社会から完全に孤立させるために、意図的に「両親の死」という設定を作り出したのです。

献身的な兄の嘘|妹を殴り、食料を奪った現実

私が最も衝撃を受けたのは、兄・清太の人物像が全くのフィクションだった点です。物語の清太は、妹の節子を何よりも大切にし、自分のことは後回しにして妹のために食料を探し回る自己犠牲の塊として描かれます。

ところが、野坂氏本人は自らの体験を「妹を殴って黙らせた」「妹の分の粥の上澄みだけを与え、自分は米粒を食べた」と告白しています。飢餓という極限状況の中で、彼は妹を思いやるどころか、その命綱である食料さえ奪っていたのです。妹の死に際しても、悲しみよりも「重荷から解放された」という安堵感を覚えたと語っており、この罪悪感こそが物語の原点となります。

冷酷なおばさんは創作|実際は親切だった親戚

兄妹が身を寄せた親戚のおばさんは、彼らを厄介者扱いし、食事を別にしたり嫌味を言ったりする冷酷な人物として描かれています。この仕打ちが、清太が家を出て防空壕での生活を選ぶ直接の原因でした。

これもまた、物語を劇的にするための創作です。実際に野坂兄妹が身を寄せた西宮の親戚は、重傷を負った養母まで引き取り、献身的に世話をしてくれたと伝えられています。親戚を悪役に仕立て上げなければ、清太のプライドの高さゆえの家出という、彼の未熟な判断が際立ってしまう。悲劇性を高めるために、おばさんは冷酷な人物である必要があったのです。

妹の死の真実|ドロップ缶ではなかった遺骨入れ

物語の象徴的なアイテムである「サクマ式ドロップス」の缶。節子の遺骨を入れ、清太が肌身離さず持ち歩くこのドロップ缶も、実は創作です。

実際の妹・恵子さんが亡くなったのは、物語の舞台である神戸や西宮ではなく、疎開先の福井県でした。それも終戦から一週間が経った8月22日のことです。栄養失調で亡くなった妹の遺体を、野坂氏は自らの手で焼き、その遺骨を収めたのは胃腸薬「アイフ」の缶でした。

テーマ事実(野坂昭如の体験)創作(小説・映画)
兄の行動妹を殴り、食料を奪った。妹の死に安堵。妹に献身的で自己犠牲的。
家族養母は死亡したが、実父は生存していた。両親ともに戦死した孤児。
親戚協力的で親切だったとされる。冷酷で利己的な人物として描かれる。
妹の死終戦後の福井で栄養失調により死亡。終戦前の神戸近郊の防空壕で死亡。
遺骨入れ胃腸薬「アイフ」の缶。「サクマ式ドロップス」の缶。

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なぜ作者は美しい嘘をついたのか|贖罪のための創作

これほどまでに事実を捻じ曲げ、美しい物語を創作した背景には、野坂氏の生涯をかけた「贖罪」の念がありました。彼は、救えなかった妹への罪悪感を、文学という形で昇華させる必要があったのです。

きっかけは娘の誕生|過去の罪との対峙

野坂氏がこの痛切な物語を執筆する直接のきっかけは、戦後しばらく経ってからの自身の娘の誕生でした。彼は随筆の中で「娘を抱くと、戦争の日、ぼくが殺した幼い妹を抱くような気がする」と記しています。

我が子への無償の愛を実感する中で、かつて自分が救えなかった幼い妹の記憶と、それに伴う罪悪感が鮮烈に蘇ってきたのです。この過去の罪と向き合うために、彼はペンを取ることを決意しました。

理想の兄「清太」の創造|なれなかった自分への贖罪

物語の主人公・清太は、野坂氏自身の分身でありながら、全くの別人です。献身的な兄・清太の姿は、野坂氏が「こうありたかった」と願う理想の人間像そのものでした。

自分ができなかったこと、しなかったことを、物語の中の清太に実行させる。妹のために必死になる清太を描くこと自体が、野坂氏にとっての贖罪行為だったのです。彼は、自らの恥ずべき過去を「美しい嘘」で塗り替えることで、罪の意識を浄化しようと試みました。

愛される妹「節子」の誕生|二人の妹の記憶の融合

物語の中で愛らしく、観る者の涙を誘う4歳の節子。彼女もまた、創作された存在です。野坂氏には実は二人の義理の妹がいました。

一人は、空襲が本格化する前に病で亡くなった、彼が大変可愛がっていた妹。もう一人が、飢えの中で彼が見殺しにしてしまった1歳半の妹・恵子さんです。言葉を話し、感情豊かで、愛されるに足る存在としての「節子」は、この二人の妹の記憶を融合させて生み出されたのです。彼が実際に示すことのできなかった愛情を注ぐ対象として、節子は創造されました。

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高畑勲監督が描きたかったもの|反戦ではない現代社会への警鐘

野坂氏の個人的な「贖罪」の物語は、アニメーション監督・高畑勲の手によって、もう一つの意味を持つ作品へと昇華されます。高畑監督は、この物語を単なる反戦映画として描くことを明確に拒否しました。

監督が語るテーマ|社会から孤立する兄妹の悲劇

高畑監督は「この映画は反戦アニメでは全くない」と明言しています。彼が描こうとしたのは、戦争そのものの悲惨さよりも、「社会から孤立したがゆえに、失敗した人生を送る兄妹の姿」でした。

彼は、単に「戦争は悲しい」と訴えるだけでは、未来の戦争を防ぐ力にはならないと考えていました。むしろ、為政者にその感情を利用される危険性すらあると指摘します。だからこそ、彼は物語の焦点を、清太という個人の選択と、その結果としての孤立に当てたのです。

清太のプライドが招いた結Matsu|社会のルールを拒絶した兄

映画を注意深く観ると、清太の悲劇が、彼の頑ななプライドによって引き起こされている部分が大きいことに気づきます。彼は海軍大尉の息子であるという自尊心から、頭を下げて親戚と協調したり、勤労奉仕に参加したりといった、戦時下の社会で生きるためのルールを拒絶します。

おばさんの言動は、確かに冷たく映ります。しかし、彼女は「誰もが国のために耐え忍ぶべきだ」という当時の社会全体の論理を代弁しているに過ぎません。清太の選択は、妹との純粋な世界を守るための行動に見えますが、結果として二人を社会から切り離し、死へと追いやる致命的な判断ミスだったのです。これは現代社会における引きこもりや孤立の問題にも通じる、普遍的なテーマを内包しています。

ラストシーンが示す本当の意味|救われない永遠のループ

映画のラストシーンで、清太と節子の霊は、丘の上から現代のきらびやかな神戸の夜景を見下ろしています。一見、二人が天国で安らかに過ごしているかのような、救いのある場面に見えます。

しかし、高畑監督の意図は全く逆です。これは幸福な結末ではありません。二人は成仏できず、自分たちが最も惨めに死んでいった数ヶ月間を、永遠に追体験し続けるという「煉獄」に囚われているのです。美しい夜景との対比が、彼らの救われなさ、そして物語の本当の恐ろしさを際立たせています。

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まとめ

『火垂るの墓』という作品は、一枚岩の「実話」ではありません。そこには、作者・野坂昭如の体験という「歴史の真実」、そして彼の罪悪感が生み出した「文学の真実」、さらに高畑勲監督が批評的な視点で再構築した「映画の真実」という、三つの異なる層が存在します。

私がこの記事で伝えたかったのは、単なる物語の裏話ではありません。一つの作品が、作り手の贖罪の念と、別の作り手の批評的な視点によって、いかに多層的で深い意味を持つに至るかということです。この壮絶な背景を知ることで、『火垂るの墓』が単なる「かわいそうで泣ける反戦映画」ではない、人間の業や社会との関わり方を鋭く問いかける、恐ろしくも美しい傑作であることが理解できるはずです。

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